対談 黒川紀章×野田暉行
〔どうする21世紀(黒川紀章対談集part2)企画:アド・ビューロー 制作:東海ラジオ放送 出版:エフエー出版1985年〕より
伊勢湾交響曲を“中部”初演で
Ⅰ. 根強い人気のクラシック音楽
黒川―野田さんは、肩書きは東京芸術大学助教授ですが、作曲家として音楽コンクールに関する賞はほとんど独占されたのではないですか。
野田―そんなことはないですが・・・・(笑)。
黒川―とにかく在学中に毎日NHK音楽コンクールで第一位、それから東京都100年記念祝典曲の優秀賞、そしてイタリア放送協会賞、有名な尾高賞、と同時に芸術祭の優秀賞、武井賞、しかしこれ以上に音楽に関する賞というのはないのじゃないですか。
野田―いえ、まだたくさんございます(笑)。
黒川―野田さんは三重県津市の出身ですね。そうすると芸大に入るまでは、高校までずっと三重県ということですか。
野田―ずっと津におりました。
黒川―そうすると、やはり津が故郷だという感じはあるのでしょうね。
野田―ええ、非常にありますね。
黒川―1940年生まれで、青春時代は、私と6つぐらい違うわけですから、もうすでに海が汚くなっていたのでしょうか。
野田―いや、そのころはまだ良かったようです。私が高校くらいまでは・・・・・。それから4、5年して帰りましたら大分汚れていたようですが。
黒川―”束の間の美しい海に記憶あり”ですか(笑)。急にそれから悪くなったんですね。
野田―高度成長になって急激に悪くなったようですね。
黒川―ところで、野田さんは、主として交響曲の作曲、あるいはピアノ三重奏曲とかホルンの三重奏曲とか、そういうクラシックの作曲活動が中心ですね。
実はちょうど先週でしたか、スベイン生まれのピアニスト、アルゲリッチ・デュオの演奏会に行ってきたのですけれども、びっくりしました。
野田―いや、すごいですねエ。
黒川―あの会場は2800人くらい入るのでしょうか。もう満席なんですよ。クラシックは少し落ち目になっているのかなと思っていたのですが、クラシックファンの結束力というか、本当にクラシックが好きな人達というのは、頑固に、根強く日本にいますね。
野田―そうですね、マニア的な方がね。
黒川―熱烈な・・・。
野田―現代音楽にはあまりいないのですけれども、いわゆる、”ちゃんとした”クラシックの方は多いですね。
黒川―”ちゃんとしたクラシック”という芸大助教授の表現にはちょっと質問があるんですが(笑)。
野田―問題ですよね(笑)。
黒川―現代音楽というのはどういうふうに定義しだらよいのですか。私から見ますと、バルトークは現代音楽なのかクラシックなのか、もうすでにドビッシーは印象派というけれども-印象派は近代絵画の祖、そこから近代絵画が始まったと言われる-それならドビッシーは現代音楽に入れていいのかどうか。つまり、クセナキスまでくれば現代音楽だと誰でも分かる。特に彼は建築家でもありましたから私はよく知っているのだけれども、現代音楽と、“ちゃんとしたクラシック”の違いは何ですか。
野田―結局、最初はみんな現代音楽だったわけですよね。
黒川―その時代、その時代には、現代音楽ですからね。
野田―それがどういうふうに伝統に根差していったかということなんです。
黒川―そうすると、ただ時代分けの違いにすぎませんか。
野田―そうです。ですから今やっていることはみんな現代音楽なんです。その中にいろいろあるわけです。ドビッシーの時代にもいろいろあったと思いますけれどもね、ニセ物もあったでしょうし。で、ニセ物はやはり当時の”ちゃんとした音楽“として残らなかったんじゃないですかねェ。
黒川―なるほどね。
野田―今の現代音楽が昔と違うところは、様式感とかそういうものが全部なくなってしまったことですね。昔は、様式感というのは温存されていましたから。
黒川―様式感というのは、スタイルという意味の様式感ですね。
野田―そうです。それがない時代ですから、よく言えば何でも通用するという時代。ということは、悪く言えばインチキも横行するということなんですね。今の時代というのは、非常に分からなくなってしまっている。全体像としては、現代音楽というとあんまりちゃんとしていない音楽のような印象が我々の音楽家の中にもあるんですね。
黒川―しかし、建築で言いますと、中世には中世のゴシック建築があって、それがある時代からきちんと変わって、ルネッサンスという時代が来る、それがバロックの時代になるというふうに、建築には特にヨーロッパでは、時代分けがはっきりあった。それが現代建築の時代になりますと、建築に使う材料が工業化された製品になりましたから、どこの国へいってもコンクリートや鉄やガラスを使うようになったということで、そこに画一的なものが出てくる。それと同時にそういうものをプルに使って、皆自由に表現することができるようになったから、そこから様式というものがだんだん消えて、かなり百花繚乱という時代になってきた。ファッション一つとってみても、昔はパリの誰々がファッションショーでこんなのを発表したなんていうと、ワッとミニスカートが世界中を覆ったり、あるいはロングスカートになったりという、それはスタイルとは言えない、むしろ流行というものに近いのかもしれないけれども、ある種のファッションにも様式というものに近いものがありましたね。ですから、現代音楽だけではなくて、あらゆる芸術、文化の状況が、今、多様化し混沌としてきている。
野田―そうだと思います。本来の自由さを獲得していて、いいことなのかもしれませんけれどもね。特に音楽というのは制約の多い芸術ですからね。
黒川―そうですか。私から見ますと、音楽というのは構造計算をする必要はないし、地震もない、台風がくるわけでもないし、コンクリートを使うわけでもない、制約なんか全然ないのじゃないかと思いますけれども(笑)。
野田―しかし、楽器を使いますからね。楽器というのは制約そのものなのです。
黒川―ああ、そうか、楽器で演奏する・・・。でも、あの武満さんのように、突然尺八を持ち込んでノーベンバーステップスなんていうのが出てきたり。
野田―尺八の制約はもっと多いんじゃないですか。
黒川―しかし歴史の中にあった楽器から、あるいは発展途上国、例えばアフリカにある楽器まで広げて見ると、無限の可能性があるというふうにみえませんか。
野田―たくさんありますね。ただ、やはり同じような制約をみんな持っているんです。そこから逃げ出すためにシンセサイザーとか、そういうような考え方が出てくるのだと思うんですけれどもね。
黒川―まったく楽器を使わない現代音楽をつくっている人達もありますね。
野田―あります。
黒川―石を叩いたり、鍋のようなものを叩いたりして。
野田―極端な場合は、ピアノをステージの上でぶっ壊すとか、そういうのもありましたね。
黒川―野田さんから見てそういうのはインチキですか。
野田―インチキではない、表現方法としてはありうると思います。ただ私は、木の葉がこう白く輝いていて美しいのは、即ち芸術である、というふうには考えない方のタイプなんです。それが一度私なら私の中を通って、もう一度出てこないと作品にならないというふうに考えているわけです。だから、いきなり舞台でピアノを壊されても、共感はあまり抱かないんですね。
黒川―僕もそう思いますね。絵でも、ファッションペインティングという、自分の体に絵の具を塗りたくって、それで展覧会場の人の見ている前で、キャンパスの上をゴロゴロ転げ回って絵を書いたり。そういう一種のダダイズムに近いような考え方というのは、19世紀末のダダの時代から1920年代の芸術運動にも同じようなことはありましたけれども、長続きしなかった。
野田―ある刺激は与えたかもしれませんけれども、何も残りませんでしたね。
Ⅱ. 世界的レベルになった日本の音楽家たち
黒川-音楽は、例えば交響曲ということを考えると、昔は宮廷というものと切っても切れなかったように思うんです。つまり、ラジオもレコードもテレビもないでしょ。しかも現代のようにオペラハウスとかコソサートホールで一般大衆が音楽を聞くというような習慣さえあまりなかった時代に、すでに音楽はあったわけだから、そういう人達は国王の前で、宮廷で自分の作曲を演奏されるのを聞いた、しかも特定の階層が聞いた。そういうことからそもそも出てきたんじゃないかと思うのですが、歴史的に言うとそういうことですか。
野田-そうだと思います。大変過激な発言になりますが、歴史を見ると結局エリートが音楽を守ってきたような感じです。西洋音楽の場合、特にそうですね。日本の能なんかも、そうですね。かなり民衆からは遊離していましたものね。歌舞伎は少し達いますけれども。
黒川-歌舞伎とか文楽はもうちょっと大衆的なものですね。
野田-ただ、それを守るという点で、かなりお上のカというのはあったんじゃないでしょうか。
黒川―あるいは金持ちとか、そういう人達がパトロンになってきたということは確かですね。
野田-特に西洋音楽の一七、八世紀の状況というのはまさにそうです。ベートーベンを育てたのは貴族ですからね。あれほど貴族が音楽を育てた時代というのはなかったのじゃないでしょうか。
黒川-確かにそうですね。実は建築も同じことなんです。ルネッサソスの花が本当に咲いたのは、もちろんフィレンツェですけれども、あそこのメディチ家が世界中の目ぼしい建築家や彫刻家や絵描きを、全部金の力で集め住まわせて、とに角おいしいものを食べさせて能力を発揮させた。そういうことで建築も傑作が生まれた。あらゆる芸術は、当時、パトロンなしではできなかった。それに比べると、現代の音楽というのはそういう意味でのパトロンを失ったわけですから・・・。
野田-ええ、まったくありませんね(笑)。
黒川-つかぬことをお聞きしますが、コンクールに応募して優賞したりする。我々建築家でも、ヨーロッパなどで仕事を取る時は、何人かが招待を受けてそれで案を提出する。で、審査を受けて注文が出される。こういう仕事の取り方をする。もちろん野田さんはコンクール以外にも、随分たくさん作曲をしておられるのですが、こういう作曲の依頼者はどういうところですか。
野田-いろいろなんです。会社ですとか、団体ですとか。
黒川-先ずオーケストラが自前の曲を依頼する。でもオーケストラは今貧乏ですから、なかなか大作曲家に依頼できない(笑)。
野田-・・・・(笑)。
黒川-そうすると、それ以外にはどういうところが頼むんですか。
野田-大きな文化事業をやっている会社とか、このごろそういうことをやっている会社は多いんですが、そのほか演奏家から個人的に頼まれることもかなりあります。一〇年ぐらいお金を貯めて、自分のコンサートを一晩持たれる。そういう時、現代曲を入れたいというわけです。大変だと思うんですが・・・・
黒川-ああそうですか。それは知りませんでした。
野田-それが一番多いんじゃないでしょうか。
黒川-ピアニストとか、バイオリニストとか・・・・
野田-お琴の方とか・・・・ね。
黒川-じゃあ指揮者もそうですか。
野田-指揮者はまったくありませんね・・・・(笑)。
黒川-いや、何も知らなかったなァ。そうすると、パトロンの形は変わって、ある意味で、企業なら企業が文化事業の一環としてパトロンとなることがある・・・。
野田-パトロンというとちょっと違いますが、まあ文化事業としての力の入れ方で・・・少しだけね。
黒川-国とか、自治体とか、公共団体からの依頼というのはありませんか。
野田-時々あります。国体なんかも、その機会の一つになっているようです。
黒川-しかし、それは一般の演奏会で演奏されることはあまりないんでしょうね。
野田-ほとんどありませんねエ。曲の責任でしょうか。
黒川-国体のため、というと一般化しにくいわけですね。なるほどやっと分かってきました。
そういう現代音楽は、野田さんのお話しですと、まさにそれは時間がたてば古典になっていく・・・。
野田-その曲の性質によって、全てとは言えませんけれども、その内のほんの一部がうまく行けば古典になっていくんじゃないでしょうか。
黒川-でも、クラシック部門で、日本の演奏家や作曲家の名声はかなり世界的に、レベルが高いというふうに感じますね。
野田-高いと思いますね。
黒川-ピアノのコンクールにしろ、指揮者のコンクールにしろ、若い世代の人達がどんどん優勝しているし、そのほか外国の演奏会で日本の作曲家の作曲したものが演奏される機会は結構多いですね。建築でもそうなんですよ。近代建築が日本の国に入ってきて100年ちょっとの歴史でどうしてなんだという質問をよく受けるんです。私は、日本は本来、外来文化を吸収して独自の文化をつくってきた、最先端のものと歴史的なものを容易に共生させて吸収できる、それがパワーにもなっているんだ、と説明しているんですよ。作曲の分野ではどうなんでしょうか。
野田-やはり同じだと思います。結局、西洋の作曲というのは行くところまで行ってしまったわけですね、20世紀にかけて・・・・・
黒川-行くところまで行っちゃった・・・・?
野田-ええ、ですから西洋は、今いろんな問題を抱えこんでいると思うんです、歴史的にもですね。それが幸いにも日本にはない。もちろん洋楽の導入と同時に我々も一緒に抱え込んでしまったところもあるんですけれども、捨てることのできる自由さもあるんですね。
黒川-なるほどね。
野田-日本は素材が非常に豊かで、洋楽の伝統がありませんから・・・。そうするとどうしてもやることが向こうより手近にたくさんある。向こうからみるとある種のオリエソタリズムも絡んでいるかもしれませんけれども、非常に目新しくて、ユニークで新鮮なものに見えるんじゃないかと思うんです。西洋はそういった意味で日本に目を付けたのじゃないでしょうか。ただ、それとは別に、演奏家の方のテクニックというのは大変上がってきていますね。世界的に見ても最先端を行っているんじゃないでしょうか。だから、コンクールに出れば日本人はほとんど入賞します。特にバイオリン、ピアノ、指揮といったような部門ですね。
黒川-そうすると、アルゲリッチだけじゃなくて、日本の演奏家でもあれくらいのお客さんを集められると。
野田-そこが問題なんですよね(笑)。テクニックが上ったからといって音楽的に豊かになったかというと、必ずしもそうではないみたいですね。
黒川-なるほどねェ。
野田-そこから先は人間の問題ですから。
黒川-あるいは、歴史の深さというような、何とも説明のできないものが出てくるかもしれないですね。
野田-そうです。やはり精神的という言葉は雑駁ですけれども、そういったものがね・・・。
向こうにあるものが日本にはどうしても根づかないというようなことが起きてくるかもしれませんね。でも始まったばかりですから分かりませんけれども。
Ⅲ. 作品が一人立ちした喜び
黒川-もう一つお聞きしたいと思っていたことがあるんです。
現代建築はそれまでの様式を持った建築とどういう点で違うかというと、様式に縛られてないということがある。これまでの様式を持った建築はかなり芸術至上主義的なところがあって、場合によっては生活を無視してしまう。ところが現代建築は、むしろ実用を重視する。だから、芸術という考え方をややオープンな形に、つまり住人のパーティシペーションという問題が出てくる。
で、それを作曲と演奏の問題で考えていたんです。かなり過激な現代音楽を見ていますと、作曲の中で演奏家が自由にしていいと指示している部分がある。そういう作曲がかなり流行ったことがある。あるいは、例えば野田さんの作曲がまったくそういうことを指示していなくても、当然演奏家は自分の解釈によってそれを演奏するわけですから、また指揮者も自分の解釈によってそれを指揮するわけですから、そこに野田さんが考えていなかった効果というのが当然演奏という場面では出てくるということがありますでしょ。誰が演奏するか、誰が指揮するかによって音色が変わったり、あるいは解釈が違って随分変わって聞こえるということがあるんだろうと思う。それをいいことと考えるか、それはなるべくそうでありたくないと、つまり自分の作曲というのはこういう音色とこういう雰囲気をねらったのだから、最終的にはベストな演奏とベストな指揮というのがあるはずだというふうに考えるのか、そのことを作曲家としてどう考えておられるのか。いつも演奏会で聞いていて、思っていることなんです。
野田-作曲というものは独立して存在しえないんです。やはり演奏が音楽なんです。ですから作曲家が作品を書いた時点ではまだ音楽ではないわけです。私は、作曲家の手を離れて作品が一人立ちした時が音楽だと思っています。私の曲にも少しですがそういう作品はあります。私の手をまったく離れてしまって、どんな演奏家もまあほとんど私の思ったように演奏しながらそれぞれの個性を発揮して下さるという曲がありますが、それは作曲家にとっては大きな喜びですね。
黒川-それはどういう曲ですか、ちょっと教えてください。
野田-エクローグという曲があるんですけれども、打楽器とフルートの曲です。今ではほとんどその演奏の練習には立ち合わないんです。
黒川-なるほどね。
野田-最初は、譜面から読み取れる範囲というのは非常に少なくて演奏ができないくらいでした。新しいこともあったもんですからね。これはどうなることかと思って心配していましたが、この数年の間にそれが手を離れまして・・・。
黒川-それは私が建築の例で話したパーティシペーション(参加)に近いと考えていいんでしょうか。
野田-そうですね、近いんじゃないでしょうか。
黒川-そういうのはむしろ作曲家としては〝やった〟という満足感・・・・・。
野田-私は嬉しいんですが・・・。とにかく、作品が定着するということの本当の意味かもしれないと・・・
黒川-それは多分古典になりますね。
野田-いやいや、それは分かりません(笑)。古典というのはまた恐ろしい世界ですからね。
黒川-しかし、いろんな人達がそこにのめり込んで自分の解釈で演奏したいと思うのは、古典になっていく、つまり歴史に残っていく第一歩ですね。
野田-第一歩ではありますね。それは嬉しいことですけれども、ただ、そのあとは作品の生命力にかかってくるわけです。使っていくうちに擦り減っていくような曲ではダメだと思います。
黒川-それはそうですね。やはり作曲をされる時にそうありたいという、そういう意識は常にあるわけですか。
野田―もちろんあります。作曲している時は、演奏行為をやっているんですね。人によってはそうでないとおっしゃるかもしれませんが、常に演奏とかかわっていないと作曲できない。必ずしも自分が演奏するという意味ではないんですが、頭の中で演奏をしているというんでしょうか。やはり建築の場合もそうなんでしょうね。
黒川-いやまったく同じです。音楽の場合には演奏の他に聞く人という主体がある。建築の場合には音楽でいう演奏する人が〝住んでる人″ということになります。観客を含めた形で存在していますから、もう一つ難しいことになりますねェ。
野田―建てる人が演奏家じゃないんですか。
黒川-工事する立場は、演奏家とは違って、建築家の意図通り寸分違いなくつくらなければ意味がない。いわば楽器の製作者という感じです。
野田-なるほど。
黒川-ところで、私は建築家でなければ作曲家になりたいと思っていたんです。
野田-よかった。強敵手が現れなくて(笑)。逆に、私は建築家を受験したんですよ、落ちましたけれども・・・・
黒川-もしかすると逆になっていたかもしれないですね。ですから、まったく楽器の演奏や作曲はできないのですけれども、作曲をしたいという、そういう強烈な憧れというのがあるんです。
野田-それは素晴らしいですね。
黒川-建築というのは〝凍れる音楽″だという言葉がありますけれども、どんな曲を聞いてもそれを空間に翻訳して聞いているんですね。
野田-いや、それは素晴らしい。
黒川-今、特に取り掛かっておられる作品はありますか。
野田-ギターコンチェルトを書きまして、ちょうど終わったところです。
黒川-そうですか。ところで、名古屋、あるいは愛知県にはどうも芸術という雰囲気――例えば作曲とか、演宴会とか、建築、その他のさまざまな芸術文化など-がないのだと言う方が多いんですね。ここで対談をしたいろんな方が、名古屋を題材にした、あるいはそれをイメージした作品というのは書き難いとか、あるいは名古屋で演奏するよりは東京で演奏した方が聞いている人の感性がいいとかね。本当なのだろうか、そんなはずはない、それは何かの先人感があってそう感じるだけじゃないのだろうか。
野田-何か育ちにくい人間性といいますか、ありますねェ確かに。保守性ではないのですけれども、ちょっと閉鎖的な、何とも言えないものはありますね。でも、このごろでは変わってきているのじゃないでしょうか。
黒川-もちろん、それまで蓄積してきた伝統的な文化を非常に深く愛して、それを保存している地域たという感じはするんです。お茶とか、お花とか。踊りとか。しかし、一方で現代音楽とか、現代建築とか、それから現代演劇とか、そういう新しい分野になると割合いそれに対しては閉鎖性がある。そういうことは言えるのかもしれませんね。
野田-ただ、どの地方も抱えている問題ではありますね。
黒川-名古屋だけじゃなくてね。
野田-ただそこで、それを打ち破る人が地元で活躍している方の中に一人でもいるかどうかということが、決め手になるんだと思います。割合いそういう方が全国的にたくさん出てきています。九州あたりなんかもね。それが少し東海地区は遅れているのじゃないかという気はしますね。
黒川―そういう地元にいる素晴らしい才能を持った人がたくさんいると思うのですが、そういう人達が芽が出しにくいとか、そういう地元の雰囲気の中でもう一つの伸びないという時に、どうしたらいいんでしょうね。外から刺激するということも一つあるし、それから地元の人達がそれに気付いて、とにかく応援するということもあるし、いろんなことがあるのでしょうけれども。
野田-やはりお金じゃないですか、根本は。
黒川-なるほどね。
野田-だから、行政をなさる方が、大英断をふるって・・・・
黒川-大英断をふるってそういう文化事業、あるいは文化人を発掘して、そういう人達の芸術的な創作活動にもっと力を入れる。昔は大金持ちがパトロンとなってそういう人達を応援したのだけれども、そういう時代じゃないから、それに代わる文化の応援をもっと自治体や国がしっかりやらなきゃいけない。
野田-そうです、結論的にはね。名古屋の人は、何かやろうとする時に東京へ出ていってしまうんですね。地理的に東京が手近な感じがあるのでしょうか。名古屋の中にいて何かしようというふうにはあまり考えない。ほとんど出てきてしまう。出てくると今度は帰らない。帰っても稼げないということがありますしね。
黒川-なるほどねェ。
野田-それが解消されれば、そういう人が帰ってきて、また新しい人が育っていくというサイクルが生まれるのじゃないかと思います。残っている方は残っている方で、ちょっと閉鎖的になっているところがあるし、まあ言い難いことですけれども。
黒川-しかし、それはあるかもしれませんね。例えば、野田さんが名古屋市制100周年記念で、世界の歴史に残るような伊勢湾交響曲を作曲する・・・。そういうことも市や県は考えてもらいたいですね。
野田-いいですね(笑)。
黒川-もちろん初演は名古屋、あるいは津。日本中の人がもしこの偉大なる交響曲を聞きたければ東京じゃ聞けないよと。名古屋か三重県にこなけりゃ本邦初演は聞けないよということになると、中部初、名古屋初の一つの刺激的な情報が出たということになるのでしょうね。
野田-なりますねェ。そういうきっかけでもないと動かないかもしれませんね。
黒川-運動してみますから、是非ひとつ伊勢湾交響曲をお願いします。
対談 黒川紀章×野田暉行
〔どうする21世紀(黒川紀章対談集part2)企画:アド・ビューロー 制作:東海ラジオ放送 出版:エフエー出版1985年〕より
追記
この対談中交わされた「伊勢湾交響曲」は、その後交響曲「三重讃歌」として実現し、三重テレビの開局20周年記念委嘱作品として、1990年9月14日、東京サントリーホールで初演され、同年10月28日に三重文化会館で再演が行われた。
全曲は混声合唱と管弦楽によるオラトリオである。全5楽章。
作曲:野田暉行
作詞:佐佐木幸綱
初演:作曲者指揮 三重音楽フェスティバルオーケストラ
(三重フィルハーモニー交響楽団、四日市交響楽団、伊勢シティフィルハーモニック管弦楽団、三重大 学管弦楽団) 三重県合唱連盟合唱団
演奏時間:約1時間、総譜:209ページ、管弦楽:3管編成+バンダ(3トランペット)
初演にあたっては半年以上に及ぶ練習が行われ、当日は近鉄特急を借り切って、演奏家を三重各地から名古屋まで運ぶなど、大がかりな作業が行われた。
ここに黒川紀章氏のご冥福を心より祈る次第である。
(野田・記)
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