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ピアニストの安川加寿子さんと

昭和63年ショパン2月号掲載 「TERUKI NODA's World すてきに話そう、音楽のいろいろ」より
第1回目 ピアニストの安川加寿子さんと 

「フランスで学んだこと」
今回からシリーズでお届けする、作曲家・野田暉行さんのトーク・ライヴ。

 その、記念すべき第1回目のゲストは、ピアノ界の重鎮安川加寿子さん。

はたして、どんなお話がとび出しますでしょうか。

 

Ⅰ. フランス音楽教育の秘密

野田 安川先生はフランスでお生れになったんですか?

安川 いえ、日本で生まれて、14カ月の頃、むこうに行ったんです。

 

野田 じゃあ、物心ついたときはもうフランスにいらした?

安川 そうですね。

 

野田 ピアノはこれまで何年間くらい弾いていらっしやることになりますか?

安川 3歳で始めたから・・・私の年齢から3歳引いた年数(笑)。

 

野田 ハア~、ふつうのピアニストの人生ふたつ分くらいありますよね。

安川 ……(笑)。

 

野田 ピアノはご自宅で習い始めたんですか?

安川 そうです。ピアノの先生が母のレッスンのためにいらしていたんです。

そのとき私も一緒に習ううち、自然と母のレッスンが15分なら私のは45分となって、いつの間にか母のレッスンはなくなってしまった(笑)。

 

野田 いつごろお母さまのレッスン時間がゼロになりました?

安川 覚えていないですね。

 

野田 でもともかくピアノといっしょに毎日生活していたと。

安川 そうですね。

 

野田 読者の皆さんも関心があることだと思うんですが、そのころ毎日何時間くらい練習してらしたんですか?

安川 毎日欠かさず弾いてはいましたが時間はそんなに多くない。2時間くらいかな、音楽学校に入る前は。

 

野田 それでも毎日2時間!

安川 音楽学校へ入ってからは、毎日3時間か4時間くらい。

 

野田 フランスの学校制度はどうなっているんですか?

安川 初めは幼稚園に入って、小学校は4年制。で、10歳で中学へ入るときに、私は音楽学校の予備科を受けました。

 

野田 試験は日本の学校より厳しいんですか?

安川 厳しいですね。最初の試験(自由曲)に受かると、次に課題曲を与えられる。それを3週間で仕上げなくてはならない。まあ、短い曲ですけれど、それを渡されたとき、あっこれはたいへんだ、もっとしっかり勉強しなきゃいけないと痛感しましたね。

 

野田 入学すると、あちらのメソードは最初どういうことから始まるんですか?

安川 やっぱり最初はソルフェージュ。

 

野田 ホウ・・・。

安川 学校に入ったとたん、強制的にソルフェージュ科に入れられます。

 

野田 そのへんのお話を今日はたくさんうかがおう!

安川 個人レッスンの場合、1時間レッスンを受けるとすると、30分はソルフェージュ。

 

野田 そうなんですか!

安川 学校ではまずソルフェージュ科を卒業しないと、次の試験を受けられませんから。

 

野田 なるほど。安川先生は学生の頃から拝聴していて、日本の演奏家とはソルフェージュが基本的に違うな、と感じてはいたんです。でも、その謎が今のお話で少しずつ解けてきました。

安川 ソルフェージュのひとつである、リズムも小さい頃から教えこまれる。

 

野田 リズムですか・・・日本の教育とだいぶ違いますね。

安川 そうですね。むこうでは歌を習うときも拍子をしつかり手でとりながら体で覚えていくんです。

 

野田 おもしろいですねえ。やはり音楽のリズムという思想が一貫してあるんですね。

安川 ええ、そうですね。

 

 

Ⅱ. 移調も初見も小さいうちから訓練する

野田 何年か前、安川先生に私のコンチェルトを弾いていただいたんですが。

安川 はい。

 

野田 あの曲、若い人などは実に苦労する曲なんですよ。それを先生が弾いてくださってたいへん驚いたんですが。それもやはり基礎教育の差でしょうか。

安川 ソルフェージュもありますが確かにフランスの予備科時代にテクニック的な土台はある程度固まったかも知れませんね。10歳から12歳までの間に アルペジオのどんな組合せでも全部やらされる。練習曲も指の練習用の曲、音の出し方を学ぶ曲といろいろあって、それをどう弾くかはまず自分で考えるのです。で、それを終えて本科へ入ると、そこでようやく「この曲はこう弾くといい」と教えてくださる。

 

野田 ハア~。

安川 小さいころにある程度技術的なことを先に覚えてしまうのはいい方法ですね。突然難しいパッセージがでてきてもそう苦労しないで弾けるし、その分与えられた音楽の意味を考えること集中できるわけですから。

 

野田 なるほどねえ。

安川 それと、今になると和声をしっかりやっておいたからずいぶん助かったなとしみじみ思います。

 

野田 フランスの学校には副科がないから、和声を学ぶときはその専門クラスにお入りになるわけですか?

安川 そうです。

 

野田 しかし、和声といえば読者の方は16小節くらいの2分音符の課題、なんていうのを思い浮かべられるかも知れませんが、むこうの和声はそんなものじゃないんですよね。

安川 バスとソプラノで4声体の課題を作るのがふつうなんですが、たとえばその課題をもうひとりの人と連弾で弾くように言われたりとか。

 

野田 やっぱり違いますね。

安川 確かに音符には強くなりますね、むこうで基礎教育受けると。

 

野田 そうでしょうね。

安川 7つの記号でサ~ッと初見で読めるようにならなくてはいけないし。

 

野田 ハア~、すばらしいですねえ!

安川 それをできるだけ早いテンポで読んでいくと、先生が途中何回か「ハイ、今度は何々記号」「次は何記号」って、そのたびにどんどん変えて読まなければならない。

 

野田 エエ、エエ。

安川 歌もあるんです。やっぱり7つの記号が混じった曲を、初見でどんどん歌っていく。 

 

野田 そうなんですか・・・日本の演奏家の場合、意外とそういうことをご存じない方が多いですものね。最近は少し変わってきたと思いますが。

安川 そうでしょうね。スコアで把握するか旋律だけで把握するかで、音楽がそうとう変わってきますしね。

 

 

Ⅲ. 往年の大演奏家たちとの出会い

野田 ところで安川先生はフランスにいらした頃、往年の大演奏家に何人もお会いになりましたでしょ?

安川 そうですね。

 

野田 ラフマニノフとも握手を交わされたとうかがっているんですが。

安川 ええ、サインも持っていました。

 

野田 エッ、サインも?

安川 ええ、ホロヴイッツのもね。

 

野田 そうですか!

安川 それとかエドウイン・フイッシャー。

 

野田 もう、そういうお話はぜひうかがって、きちんと記録しておかないといけませんね。

安川 パデレフスキーとは、握手もしました、パリで。

 

野田 といっても、まだ安川先生はお小さいころですよね。

安川 そう、8つくらいだったかな。

 

野田 むこうは?

安川 70・・・歳ころかな。当時、一連のポーランドの催しものがあって、パデレフスキーと、ワンダ・ランドフスカとルービンシュタインも来て・・・。

 

野田 それはすごいですね!

安川 で、パデレフスキーの演奏会を母と聴きに行って、そのあくる日にランドフスカの演奏を聴きに行きました。そうしたら会場の前で、パデレフスキーが自動車から会場へお入りになろうとした。そこへ母がすかさず「きのうの演奏会はとてもすばらしかった!」と話しかけて。彼が「ありがとう」って私にも握手してくださったの。

 

野田 ヘェ~。作曲家ではどなたにお会いになりました?ラヴェルには?

安川 ラグェルは両親が演奏会でラヴェルが指揮した演奏を聴いたと言ってましたが、私はその時行きませんでした。おもしろかったのはコンサートでパデレフスキーが四角くてフサのついたイスを持ち歩いていて、どんな演奏会でもちゃんとそれがでてくるの。で、パデレフスキーはとってもアガリ屋さんで、ひとりでステージに出られないほどだったそうです。

 

野田 ホントに!?

安川 ステージの袖から人に押されないと出られないほどに。

 

野田 ハハハ・・・。 

安川 客席はまだザヮザヮしてるでしょ。そこで彼は、昔風にいろんなコードドを弾き始めるわけ。

 

野田 演奏の前に!?

安川 そう、演奏の前に(笑)。それでみんながびっくりして客席について静まったとたん、やおら演奏が始まる。

 

野田 昔はそういうこともやって良かったんですね。

安川 そう。 

 

野田 そうだったのかぁ!(笑)

安川 もうその頃は真っ白な髪の毛がフサフサ。まるでライオンのたてがみみたいだった。

 

野田 よき時代の象徴のようですね。

安川 そうね。昔はいろんなことがありましたよ。パッハマンなどは、「この音はきれいだからもう1回弾きましょう」とかね。

 

野田 アッハハハ・・・。それ、実際にご覧になったんですか?

安川 いえ、私の教師だったラザール・レヴィ先生がよくその話をしてくれたのです。

 

野田 ああ、そうですか。あの頃のフランスにはまだ大作曲家も何人かいたんですよね。ラヴェルにドビュッシーにフォーレに。

安川 ドビュッシーは1918年に亡くなっていましたね。

 

野田 当時フランスの音楽学校では、自国(フランス)の現代ものも弾いてらしたんですか?

安川 いえ、コンセルヴアトワールではラヴェルだとかドビュッシーはまだそんなにも弾いていなかったですね。

 

野田 そうですか。それと安川先生は池内友次郎先生にもパリにいる頃、お会いになったんですよね。

安川 ええ、お会いしたことはしたんですけれど、あちらからは無視されちやった。

 

野田 どうしてですか。

安川 というのはね、音楽学校の廊下ですれ違ったわけ。で、日本人の方だからと思って、私はニッコリしたのですが、そのとき私は10歳くらいですからね。先生にしてみれば、そんな小さな女の子を相手にしたって仕方がない。

 

野田 ああ、わかる、わかる。

安川 あとで大笑いしましたけどね。

 

 

Ⅳ. アルファベット文化と漢字文化との違い

野田 結局フランスには何年から何年までいらしたんですか?

安川 そうですね・・・1923年から1939年まで。世界大戦が始まったので、ひきあげてきましたの。

 

野田 日本に帰って来られてからは、学校の教授と演奏活動と主婦業と、それを全部パーフェクトになさいましたよね。そのあたりの秘訣は何なんでしょう?

安川 パーフェクトではないですよ。どれもほどほどにしていたからここまでこられた。

 

野田 いやいや・・・。

安川 ただね、音楽だけじゃなく、フランスで教育を受けてきたから頭の中を非常に合理的に整理ができたんですね。切り替えが旱かったから、時間をムダにしないですんだ。

 

野田 なるほどね。

安川 日本ていうのは漢字ひとつ覚えるのにも時間がかかるでしょ。むこうはアルファベットだけ覚えれば8歳くらいから新聞も読めるけど、日本の新聞を読めるようになるまではたいへんでしょ。

 

野田 ああ、アルファベット文化と漢字又化の違いですね。日本に帰ってきて何か抵抗感ありました?

安川 それはないですね。いま、何をしなくてはいけないかを常に考えていたし、悩んでも仕方ないから。

 

野田 そのへんは教育のおかげというよりパーソナリティのすばらしさですね。最近の日本の若手音楽家を見ていかがですか?

安川 たいへんよく弾いていますね。いま、テクニックは世界でもっとも高い方かも知れない。

 

野田 でもおとなしいですよね。聴き手に訴えかけない。

安川 やはりこれまで感情を表に出さないのが美徳、という教育でしたから急に変わるのは無理ですね。テクニックがもう少し音楽側面からつながるといいんですけどね。

 

野田 やはり若い人は外国へ行ってみたほうがいいですか?

安川 そうですね。自分が間違っていなかったと認識してくるだけでも違うし、景色ひとつ見ただけでも違いますね。バッハやモーツアルトの国を肌で感じてくると。

 

野田 音楽は風土と切り離せないところから生まれましたからね。

安川 ええ。

 

野田 それを日本人は音だけ特ってきちゃったんで、発達の方法が違ったような気もするんです。日本で洋楽をやるということについて、ときどき考えてしまうんです。

安川 洋楽とか邦楽とか、特に意識しなくてもいいのではないですか。特に作曲家の方は、洋楽を消化して新しいものを作ったり、洋楽と邦楽の接点を組み合わせて別なものを作ったりできますでしょ。

 

野田 でも演奏家の意識も変わらなくちゃ・・・。

安川 そういう曲がどんどんできてくれば自然と変わりますよ。

 

野田 できますかね・・・?

安川 できるはずですよ。

 

野田 よかった。それについて悲観的な意見を言う人もいるのですが、私はわりあい楽観的な方だったんです。安川先生の場合はとても楽観的ですね。

安川 もちろん!

 

 

昭和63年ショパン2月号掲載 「TERUKI NODA's World すてきに話そう、音楽のいろいろ」より 

第1回目 ピアニスト 安川加寿子さんと