バッハを垣間見る 音楽の友 2000年1月号 掲載

 バッハといえば誰もが先ず対位法という言葉を思い浮かべるだろう。

平均率ピアノ曲集をはじめとする数々のフーガに集約される対位法の極致は、まさにバッハの独壇場だ。その達人として彼が如何に歴史的に希有な存在であるかは、後世の名だたる作曲家のそれと比較してみれば明らかだ。それこそ彼の音楽を深遠にして、やや人を遠ざける感あるものにしているのであるが、何はともあれ一例を見てみよう。

 譜例は、マタイ受難曲No.26(アリア)の主題の一節である。各上段がバッハの書いた旋律である。よくご存知の旋律だとは思うが、今、全体を通して歌う前に、最初の2小節半を与えられたと思って、一度各自、その先をどう続けるか歌い試みていただきたい。どうだろう。3、4小節目のように発想する人は先ずないだろう。では4小節目までの発想を得たとして、その先はどうだろうか。5小節目では、バッハは冒頭のモティーフの敷衍により第2フレーズを歌い出している。彼もそのような意識で考えたということに一安心である。しかし、その先、この旋律の辿る道は何と奇怪なものであろうか。これはもう作曲技術の習得等でははるかに及ばない世界だ。これを例えばベートーベンの「歓喜の歌」の旋律と比べてみる時、あまりの複雑さに驚かされる。もちろん一方で、ベートーベンのそれのあまりに簡素な構造にも驚かされるのではあるが。どちらも決して真似の出来ない世界だ。

 

 さて、このバッハの旋律構造はどうなっているのであろうか。結論を書いてしまうと、この旋律は、実はいくつかの声部が1本に集約された形となっているのである。○印を付けた音と△印を付けた音に注意しつつ、各段の大譜表を御覧いただきたい。これら印を付けた音が実は独立した声部を形作ることに気付かれるであろう。そう、この旋律は一つの声部の中で対位法を実現しているのである。それがこの旋律を斯くも複雑な姿にしているのだ。

 私が還元したこの大譜表の和声は、バッハがスコアで指定している通奏低音の数字とは一部異なったものとなっている。特に*で示した部分は、本来この和声進行が要求する和音を示唆したものである。しかし、実際はこの和声にはよっていない。彼の発想がこの和声の枠内にとどまらず逸脱したため、この和声を採用できなかったのである。この旋律には、7~8小節目の半音で下降する和声と同時に、それに拮抗する、一音に固執する(その音を↓で示した)もう一つの声部が内在するのであり、そこは音がぶつかってしまうのである。バッハはそれを巧みによけて和声付けしているが。現代ならぶつかり合う音を同時に鳴らしてしまうところだ。私にはこの時代を越えた軋みが面白くてたまらない。それを一つの「歌」の中で発想するバッハの恐るべき能力には驚嘆するばかりである。

 バッハは常々、弟子に旋律を書かせるとき、そこに四声体(すなわち今お見せしている大譜表のような和声)を感じてリアライズするよう求めていたという。だから私が今行った分析は、決して分析のための分析ではなく、半ば本能的に意識されたことへの逆アプローチなのである。

 このほんの一例の中にこれだけの情報が詰まっているのであるから、バッハの全作品が如何なるものであるかは想像に難くない。その分析はどのようなミステリーの謎解きより面白いというのが私の持論である。バッハの音楽的要求は並はずれて強く、それに応じて駆使される技法もまた並はずれて多彩である。そしてまた、上に見るように、逸脱をも恐れない確信に満ちたものだ。例えば、このマタイ受難曲No.26の合唱部分もまた極めて興味深い書法(4声の転回対位法)によって書かれているが、それは各自眺めていただくこととしよう。

                         

野田暉行

 

音楽の友 2000年1月号 掲載