私は、作品を、純粋に思考の結果と考えている。衝動が方向を持ち始めたとき、思考の過程が生まれる。人間が、芸術によって何かを表そうとして以来、その過程はまったくの自由であった。その当然の成行として、われわれは、現在、無制限な混沌の世界に属している。そこには、あらゆる素材と方法の豊かな集積がある。
豊かな自由は勇気を与えてくれる。しかし、また、怠情をも同時に与えることを忘れてはならない。われわれは、何時でもそこに安易に安住する危険性にさらされている。
薄弱な意志は、自己にとっても他人にとっても常に無表情である。それは、化身によって捕われるものではない。
問題は、どのような手法によって書くか、ということではない。衝動と密接した思考は、必然的に、ふさわさしい手段をもたらすに違いない。しかし、もし、作曲家が、まず書くことを考え、その手段を思考するなら、われわれは、無感動の虚無の世界に取り残されるだろう。作品は、どこまでも、思考の結果が、書かれるのである。私にとって、作品は、これがすべてである。作品が演奏されるかどうか、あるいは、それが私の耳に聞こえるかどうかは、まったく別の次元に属している。
現代の、まだ自然淘汰以前に置かれた多くの作品あるいは行為は、そういった自由の中を不安定に動揺している。真にそれを判定しうる者は、作曲者自身以外にはない。
私は、現在の種々の状態に、悲観も楽観もする者ではない。ただ、一つの在り方として------とりわけこの日本の多くには-------力強いものが欠けていると感じている。そして、私自身については、何よりも自分に正直であることを思うのみである。それは、自由の中の、極限の不自由である。
野田暉行
音楽芸術1966年12月号掲載「わたしの創作ノート」より