どうしてモーツァルトのような人が存在し得たのであろう。
天才、神童、神秘、これらの言葉が彼ほどふさわしく真実である人はいない。
が、そのどの言葉も、何とモーツァルトの不思議さを解き明かさないことであろう。
多くの人々がモーツァルトについて書きそして語って来た。
それぞれの人のそれぞれのモーツァルト観は、各自の体験と感性に裏付けられて、
それぞれの真実である。
しかし、それらは必ずしも重なり合わず、そして又、言うべき何かを結局は言い尽すことができない。
われわれはますますモーツァルトの不思議を深め行くばかりなのである。
モーツァルトの音楽を聴く時、われわれは百人百様の感じ方でその中に遊ぶ。
彼の音楽はいとも気軽にそれを許してくれるようだ。
何ものをもけっして強要しない音楽。
しかし、単なる心地よいムードを提供しているのではけっしてない音楽。
われわれの心裡にさり気なく入りこみ、いつの間にかもっとも奥深い所を目覚めさせる音楽。
自然がするのと同じやり方でモーツァルトの音楽はわれわれに語りかける。
だからこそ人々は、それぞれの人生観をそこに映してモーツァルトを見、
そこに又、自分をも見出すことになるのであろう。
そして語り尽すということを知らないのであろう。
あの限られた時代様式の音楽の中に、モーツァルトはまったく人目には見えぬ形で、
無限とも言える精神を浮遊させた。
自然が一見やさしいその表情とは裏腹に、激しい葛藤と非情な規則性を秘めている如く、
モーツァルトの音楽も又、単に屈託のない感情の申し子として生み出されたものではなく、
計り知れない高い緊張の中から生み出されたということへのこれは証しなのであろう。
作品として純化されて行く過程のその落差こそ、モーツァルトの人間性そのものであり、
われわれが彼を見失う一瞬である。
モーツァルトの激しさにくらべれば、現代のわれわれは何と鈍化した堕落した状態にあることだろう。
時代様式の変化と共に在り方の変ってしまった本能的葛藤は―それこそ本末転倒なのだが-
いつとはなしに平均化されて多くのものを失わしめる結果となった。
モーツァルトをこのように在らしめたもの、それはほかならぬ彼の音楽体験そのものであり、
それも又、現在まったく望み得ぬことなのだ。
新潮社「新潮文庫・モーツァルトカラー版作曲家の生涯(田辺秀樹著)寄稿 ©NODA
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Renewal memory 20180612
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